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 境内のご案内

本 社(ほんしゃ)
玉置神社本社

 本社は、玉置神社の主祭神をお祀する社殿で、 本殿ほんでんとも呼ばれます。建物内には三基の宮殿くうでんが安置されており、合せて五柱いつはしらの神々を奉祀しています。
 内陣ないじんの中央殿に奉斎される国常立尊は「日本書紀にほんしょき」の神話において天地開闢てんちかいびゃくの始めに現れたとされる神です。そして、相殿あいどのには日本の国土を創生した伊弉諾尊・伊弉冉尊の二柱の神を配祀します。
 また、右殿(向かって右)には伊弉諾・伊弉冉の御子神みこがみ・天照大御神、左殿には天照大御神の五世孫で初代天皇である神日本磐余彦命(神武天皇)をお祀りしています。
 けやき材を用いた社殿は、入母屋造いりもやづくり・平入ひらいりで、正面に軒唐破風のきからはふを付け、その上には千鳥破風ちどりはふを設けます。建物は再建された寛政6年(1794)当時の様式を伝えるものと考えられていますが、入母屋造りによる本殿は奈良県内にあまり類例のないものです。
(※宮殿くうでんとは、ご神体を奉安する本殿形の小建築で、玉殿ぎょくでん厨子ずしなどともいう。)

摂社・三柱神社
摂社・三柱神社

 玉置神社境内に古くより鎮座されております三柱神社については謎が多く、説明が難しいのですが、よくご質問をいただく点などを中心に簡単にまとめさせていただきました。
 まず「摂社」とは本社に付属し、本社に縁の深い神様や特別の由緒がある神様をお祀りした神社を指します。
三柱神社の神様は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)・天御柱神(あめのみはしらのかみ)・国御柱神(くにのみはしらのかみ)の三柱と伝わります。
 この倉稲魂神は京都府の伏見稲荷大社で農業や商売繁盛などの神様として、また天御柱神・国御柱神は奈良県生駒郡の龍田大社で風を司る神様としてお祀りをされていることで知られます。
 三柱神社は別名「稲荷社(いなりしゃ)」とも呼ばれますが、稲荷信仰が盛んになる前から地主神(じぬしのかみ)としてお祀りをされており、厄除けや心願成就さらに精神の病(ノイローゼなど)また海上安全にも特別の霊験があるとされています。
毎年、3月の初午の日(今年は3月12日)に行われる三柱神社の例祭は初午祭とも呼ばれ、10月24日に行われる本社・玉置神社の例祭に次いで、盛大に行われます。

末社・若宮社/神武社(まっしゃ・わかみやしゃ/じんむしゃ)
末社・若宮社/神武社

 若宮社・神武社は、本社の西隣りに鎮座する玉置神社の末社です。社殿は見世棚造みせだなづくりと呼ばれる様式で同じ大きさに作られており、向かって右に若宮社、左には神武社を配置します。
 若宮社には、ご祭神として住吉大神・八幡大神・春日大神の三柱みはしらの神が勧請かんじょうされています。また、神武社に奉祀しているのが、迦具土神・速玉男神・高倉下神の三柱です。
 もっとも、本来は若宮社の主祭神として、伊弉諾尊・伊弉冉尊の御子神みこがみ・天照大御神がお祀りされていました。同様に、神武社のご祭神となっていたのが神日本磐余彦尊(神武天皇)です。
 社殿名はこの二柱のご祭神に由来するものでしたが、明治初期に両社の主祭神が本社に合祀されることになりました。そして、祭祀の変遷を経た後に社殿が再建され、現在に至っています。
(※若宮社とは、本社のご祭神の御子神などを祀る摂社・末社のこと。)

社務所
社務所

 社務所・台所は昭和63年(1988)に国指定有形重要文化財となりました。
 江戸時代末期、神仏混淆であった玉置神社の別当寺であった高牟婁院の主殿及び庫裏として建立されたもので、 神仏分離後は社務所・台所および参籠所として使用されています。棟札から文化元年(1804年)の建立と判明。

出雲大社玉置教会(いずもおおやしろ・たまききょうかい)
出雲大社玉置教会

 出雲大社玉置教会は、明治20年(1887)に造営された出雲大社教の教会です。神殿には出雲大社の御分霊ごぶんれいをお祀りしており、合殿あいどのには十津川郷中の祖霊それいが合祀されています。
 十津川郷では明治4年~6年にかけて全村で寺院が廃止されました。このため郷内では神道を本教とし、神官が教導職きょうどうしょくという役職を兼務して宗教活動や国民教化を行っています。
 しかし、同15年に神官の宗教活動が基本的に禁止され、神社に奉仕する神官と、教会で宗教・教化を行う教導職が分離されることになります。また、2年後には教導職の制度も廃止されました。
 そうしたなか、十津川では郷中の協同一致を計るため、同18年に出雲大社教へ布教を願い出ます。そして、全村民が大社教に属し、神官は大社教の教師を兼補して戦前まで布教を続けることになりました。その拠点となったのが玉置教会です。

大日堂社(だいにちどうしゃ)
大日堂社(だいにちどうしゃ)

 大日堂社は、明治初期に廃止された大日堂を平成4年(1992)に再建したものです。堂宇どううは仏堂と社殿を折衷せっちゅうした堂社形式で建造されており、外部を入母屋造りの神社建築とし、内部には仏像を納める六角堂を配置します。
 御本尊は木造双身大日如来坐像もくぞうそうしんだいにちにょらいざぞうで、金剛界こんごうかい胎蔵界たいぞうかい大日如来が背中合わせに坐すかたちで表されています。また、二尊にそんを安置する台座は輪転りんてんするように組み立てられていて、元号の奇数年には金剛界、偶数年には胎蔵界の大日如来像が正面を向くよう、節分の日に回転祭が執り行われます。
 なお、毎月8日は堂宇の外扉を開けて六角堂を公開しており、毎年8月8日の例祭日には御堂内部の御本尊も御開帳いたします。拝観については建物の外部からに限り可能となっています。

神楽殿
神楽殿

 弓神楽を奉納し、参詣者に御神符を交付し、大いにに賑わった時期もある。
伝統芸能など各種奉納の要請も多くなりつつある。

絵馬堂
絵馬堂

 もとは2、3階になっていた。現在は一層であるが、往時の力を保っている。

御神輿殿
御神輿殿

 神輿(みこし)は、神道の祭の際に、神が御旅所などへ渡御するに当たって一時的に鎮まるとされるのが輿である。
 毎年、10月24日は当社の例大祭。この神輿が神社周辺を練り歩く勇壮な祭りです。

彩色戸襖

※改修中のため拝観を停止しております。

彩色戸襖1
彩色戸襖2
彩色戸襖3

 社務所内部は杉一枚板の板戸及び板壁60枚余で仕切られ、この全ての襖に幕末の 狩野派の絵師である法橋橘保春らの筆による、松・牡丹・孔雀・鸚鵡・鶴などを 題材とした豪華な花鳥図が描かれており、各室は襖絵の題材の名によって呼ばれています。
 北側列は西から順に「孔雀の間」「老松の間」「鶴の間」「旭鶴の間」「牡丹唐獅子の間」を配し、南側列は西から順に「御殿の間」「宮司居室」「禰宜居室」及び居室2室を配します。
 「孔雀の間」の北には「神殿」があります。上手に位置する「孔雀の間」「御殿の間」「神殿」は、 他の部屋より床を1段高くし、天井は格天井とするなど(他の室は棹縁天井)、格式の高い造りとなっています。「孔雀の間」「御殿の間」は聖護院門跡の入峯の際の御座所として用いられたものであり、「神殿」は神仏混淆時代には「護摩堂」と呼ばれていました。

和泉式部参詣記念
和泉式部参詣記念

 古来より熊野三山奥宮として信仰が厚く、数々の行幸があると伝えられる。
 両側の(写真)石塔は、後白河院、和泉式部参詣記念として建てられたものである。

玉置神社梵鐘(昭和34年国指定重要文化財)

※修復のため解体保存しております。

梵鐘

 梵字を刻んだ釣鐘で神仏混淆時代の梵鐘。
 應保三年(1163)癸巳三月三日の銘があり、元暦元年(1184)正月、源義仲の軍勢を前に、梶原景季と宇治川の先陣争いを演じた佐々木高綱(乃木希典 将軍の祖)が献納したもの と伝えられています。
 銘のある鐘では、全国で11番目に古いとされている。
 現在、梵鐘は十津川村郷土資料館に展示中。

杉の巨樹群
神代杉

 奈良県指定天然記念物(1959年〈昭和34年〉2月5日指定)。3万平方メートルの玉置神社境内は 永らく聖域として伐採が禁じられていたため、温暖多雨の気候と土壌に恵まれ、樹齢3000年と 言われる神代(じんだい)杉や、常立(とこたち)杉、大(おお)杉などの巨樹を含む杉の巨樹林が成立しました。

大杉

画像は、大杉。

境内でも一番大きな杉で、目通り周囲11m、高さ約50m、天に向かって真っ直ぐに伸びています。